『モダンな日常性が与えるカタルシス』
現在を率直に生きることが,自己に粘りつくような懊悩を超克する.この物語の大局的主題を一句で語るとしたらこのように言えるのではなかろうか.
屈折した人間性を持ち,余命残り少なく世俗に対して捨鉢な主人公,佐々木常宏はアングラー達と出会う.この偶然の先で,彼らの純真で淀みなき生が常宏の生活に変化をもたらす.釣り,これが死によってもたらされる虚脱感から彼を一時的に開放する.
この,趣味への純粋な感興は諸々の苦悩を置き去りにする.だが,それは刹那の享楽的な生であり,欺瞞的な安住に過ぎない.その先の幸福は,閑却し得ない問題に主体的に挑まないことには獲得することができない.その過程が常宏と貴明の軋轢に描かれる.彼らが対面しなければならない対象は,未来(死)と過去(悔恨)である.これらは,時間的存在である人間が内包する苦悩であり,現在の感興によって目を背けることのできない対象だ.しかし,彼らの持つ独善性-貴明から与えられる親切に無自覚な常宏,強圧的な親切心を向ける貴明-が,それら苦悩と彼らを向かい合わせることを拒む.そこで,常宏は,自身の内に抱く,貴明の率直な利他心に対する謝意を自覚する.そして,純朴さと共にその意を貴明に示す.釣りが楽しい,と.その情意を受け取ることで,貴明は己の業を受容する決意を固めることができるのである.このようにして,彼らは,相互的に現在の有意味性を認め,すなわち互いの働きかけを意義あるものとし,他者存在を了解することができる.そうすることで,相互的に現在を肯定することができる.それはまさしく率直な生である.未来・過去を内包する現在を率直に生きることによってこそ,取り戻せない過去や来たるべき未来を受容することができるのではないだろうか.失った家族への憧憬に目をくらませることなく現在を生きる店長,一般的でない過去を有しながらも現在に純真な眼差しを向けるハナ.いずれも過去を受容し,確かに現在を生きるのである.他のキャラクターも同様であろう.過去を詳述していなくとも,確かに今を生きている.
このように,本作は,主人公が偶然的に友人に恵まれるという射幸的カタルシスを越えて,諸々の懊悩を抱えながら現実を生きる我々に実存(自己に対して自覚的な生)の光を照らす.そして,実在の地域を舞台とするモダンな物語世界や,主人公を取り巻くキャラクター達の不詳な人物像が,ある種の虚構性を持ちながら実際的な物語を構築している.最終話,主人公が同僚達に退職の経緯を詳述しなかったことも,人間同士の実際的な距離感を演出しているのではなかろうか.このように,虚構と現実性との架橋が人生観や物語世界にまで浸透している.かくして,モダン(現実的・実際的)な日常性(生)のカタルシス(物語すなわち虚構による産物)が私の内部に顕現する.これこそ,本作の持つ価値であると,私はそう思う.