作中では「どうか身の回りの”大人"に相談してくれ…」と願ってしまうようなシーンが何度も積み重なって最悪の展開を迎えますが、それこそが構成の中心にあると感じました。
まず着目すべきはその「大人」が一切描かれていないこと。
例外として第1話で先生、第4話に言葉の母など…がそれぞれ声だけ出てきますが、徹底して容姿とメインキャラとの重要なやり取りは描かれていません。
(遠近ショットで自然なボカシ処理や、扉で姿を隠し空間を持たせるなど、当該カットはそのことを強調する意図が演出されています。)
結果、高校生とはいえまだ人生経験の浅い子どもたちだけで進んでいくこのお話は、伊藤誠という悪質な存在を中心に歯痒いほど脆く崩れていく人間関係を描いていきます。
もちろん他のキャラクターも多々すれ違いや行動のミスを起こしていることが顕著です。
そこで次に、このアニメがアダルトゲーム原作であることに着目します。
選択肢によって分岐するシナリオゲームはプレイヤーの判断を物語に反映します。
アニメ化脚本として、あえて悪手に次ぐ悪手ルートを選んで描いたことを考慮すると…
「私たちの人生は噛み合わせの妙で成り立っているのだ」ということを伝えたい、まるで性悪説をテーマにしたストーリーなのではないか?と感じさせられました。
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一般的に、成長を描くために主題の人生課題を「少年少女キャラ」に背負わせ、そこにヒントや説教、更なる壁を与える「大人キャラ」という割り当てをするのはセオリーの1つです。
大人の視聴者ですら主人公の「少年少女キャラ」の機微や葛藤に共感をし、得た考え方を人生の糧とします。
個人的には「子どもは純真無垢である」という意識の根強い日本の文化的側面から、特にマンガ・アニメ史などにて好んで育まれた構造であるとも踏んでいます。
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その点、やはり子どものみというフラットで危ういクローズドな社会を描き、あえてその子どもという無垢さ≒軽率さと視野の狭さを露悪的にフォーカスしたこの作品の目的は、老若男女問わず目を背けたい部分へ向けたメッセージ性にあるのでは?と思わざるを得ないのです。
ただただ加速していく伊藤誠のクズっぷりに笑ったり、鬱アニメとして不快感を享受させるだけが目的の作品とするには、あまりにもその段階が12話かけて丁寧に描かれすぎていると思います。
勝手な憶測に過ぎませんが、実際世の中にある「人間関係が発端の殺人事件」も本作同様かそれ以上にやるせない、許せない事の連続で起こったのではないかと思ってしまうほどに…それくらいの無力感がこの作品の後味であることは確かです。
最終話、最期まで大きな過ちの連続に気づけないまま逝く伊藤誠の姿が映され、それを視聴者はカタルシスとして受け取ることになります。
そこには、アニメを観ていた自分にもただ自覚できていないだけのクズな部分、一般の倫理観からズレている部分があるのではないかと我が身を振り直させるような迫力がありました。
「誰しもが (恋愛や性にまつわることに限らず) それぞれ違う部分で伊藤誠的性格を無自覚に、歪な歯車としてひっそりと抱えたまま生きている」
「そして我々が平穏に (殺し殺されず) に人付き合いを送れているのは現状その歯車がギリ周囲と噛み合ってるからこそである」
とでもいうような、啓蒙に近い強烈なメッセージをこの作品から受け取りました。
画面に向かって投げた「誠死ね」の感情が、いつの日か思わぬ形でもって返ってくることが無いよう祈るばかりです。