よくある合宿回をやりつつも、侑の決心、歩夢に生まれる不安を丁寧に描いていて良い。
あの液体をまともな味にできる彼方はかなりの達人ではないか?
果林回…としてはちょっと弱かったかなという感じだが、ソロアイドルとしての在り方をはっきり示した回。ステージにはソロでという縛りによって、むしろグループアイドル的な関係性の力学を強化しているとも言えるかも知れない。
しずく回。自己表現については第5話でも扱っていたが、ここで重要なのは「演じる」という観点だ。
アイドルの文脈では、メディアアイドルの時代の演じるアイドルから、ライブアイドルの時代のそう生きるものとしてのアイドルへという歴史がある。アイドルコンテンツのリアリティショー化に伴って、アイドルは理想像を演じるのではなく自分自身の表現へと主軸を移した。(この点で演じるタイプのかすみが登場するのは理に適っている。)とはいえ演じる要素が消えた訳ではなく、「表立って演じる」事によりむしろ本人のパーソナリティが際立つという事態が発生した。これはかすみに典型的だし、しずくが最終的に白黒合わさった衣装になるのもそうした止揚的な解決と言えるだろう。
この回ではこうした文脈を踏まえつつ、演劇部というプロフィール、今までのキャラ立ちしない描写が一気に「桜坂しずく」へと結実している。
冒頭より彼方のお昼寝キャラが、努力家としてギャップを伴って深化される。遥が彼方の夜更かしを意識する場面も、ただ気にするのではなく背を向ける事で対立的な感情を示唆しており細かい。
遥のスクールアイドルを辞めるという選択は一見重すぎるが、つまりはそれだけ姉の存在が大きく、そしてその献身を重大に受け止めていたという事だ。そうするとただ家事を任せるというのでは解決としては弱く見えるが、ライバルとして、というのが重要なところだ。姉だから、妹だからと絶対化されていた片務的関係を無効にする力がその言葉にはある。ステージにおいて全てのアイドルは平等なのだ。(これは第3話の競争的アイドル批判にも繋がる。)
この子の事情が気になって虹ヶ咲を観始めたと言っても過言ではないのだが、期待以上の非常に良い回だった。
トラウマを抱えた女の子がそれを解決してハッピーエンドというのはエロゲとかの方面で成立してラノベやアニメにも普及していった形式だと思うが、最近ではむしろトラウマを克服(=否定)せずにおくというのが批判的展開(要するに環境メタ)として現れてきている様に思う(私の知る限りそう解釈できるのはマギレコの水樹塁だけだが)。この回でもやはりそうした時代性への鋭い感性が働いていて、丁寧な心境の追跡と相俟って隙の無い完成度になっている。
エマ回、そして果林加入。
「そんなキャラじゃない」キャラというのは要するに社会的なポジションな訳で、そこに嵌まる事で人は居場所を確保し、否定されない保証を得る。ではそれによって苦しめられている時どうすればいいかというと、その人自体の肯定しかない。「心をぽかぽかにしたい」という志と相俟ってエマの肯定はこの上なく強力だ。
冒頭、せつ菜がまだこのポジションに慣れていない様子がかわいい。
愛回だが、前回個人主義的な立場を採用したことの帰結としてグループアイドルという枠組みの危機が訪れているのもまた面白い。OPでは全員で一つのステージに立っているが、ここからどう展開するのか。