フォロワーさんに突然オススメ頂いて、映画ドラえもん観てきました。
正直ノーマークでした。
もちろん原作は大好きです。熱心なファンでは全然なくて読んだことのあるエピソードはごく一部だけど、漫画の文法もセンスオブワンダーも、たぶんドラえもんから教わった。だけど大人になってからは全然触れてなくて、映画も気になりつつも観る機会を持ててませんでした。
そこにいきなり「ドラえもん映画えぐかったからおーるてーるさん見て欲しい」という名指しのレコメンド。しかも別にSF色が強そうというわけでもない。むしろ、絵世界……異世界??
で、若干「???」となりながら観に行ったところ……いや、恐れ入りました。
確かに、全体的に好きな要素しかない映画でした!
フォロワーさんたちがいったいどこまで自分の性癖を把握してるのか怖くなってくる今日この頃でございます。
先日、小1くらいの頃のプリントが実家から出てきたんですが、「あなたの夢を書きましょう」みたいな企画でクラス全員の夢が書いてあって、自分の書いたやつ見たら「本や絵の中に入って遊んだり冒険したい」みたいなことが書いてあって、あ〜〜三つ子の魂恐ろしいもんだなと横転したんですよ。タイムマシンで当時の自分に会いに行ってこの映画見せて反応を見てみたいもんですね…泡吹いて倒れるんじゃないでしょうか。
のび太たちが絵の中に入って絵の中の人間と一緒に冒険してるのと全く同じ構図として、観客である僕らは完全に映画の中に入り込んでのび太たちと冒険してるわけで、スクリーンがそのままはいりこみライトになっている。そしてのび太たちが絵の中のクレアの実在を信じるのと同程度に僕らはのび太たちを実在として感じながら冒険してるわけで。
……とまあ野暮なメタ論がどうでもよくなるくらいにやっぱ絵の中に入るのは単純にめちゃくちゃ楽しいです。
オープニングの時点のコンセプトがもう最高ですよね。絵の中に入ったのび太たちはちゃんと絵のタッチになる。こういう、絵のタッチ変わるやつ(小説で言うと地の文のタッチが変わるやつ)、大好物です。映像的にもすごくチャレンジングなことやってるオープニングだなと。
時間ものに対して自分は謎のフェチがありまして、「過去の人が現代に来てオーバーテクノロジーに驚く系(多分この性癖はドラえもん「ホラふき御先祖」によって開眼した)」と「過去の世界の住民と思ってた人物が実は自分と同じ未来から来た人間だとバレる系」が二大性癖なのですが、どちらも詰め込んでくださってありがとうございました。はい。たぶん自分はそこに生まれる「圧倒的な情報格差」が好きなんだと思います。部屋に踏み込まれたパルがどちゃくそ焦ってるところとか最高でした。
物語は王道オブ王道で、でもちゃんと先の見えないワクワク感があって、特にへたっぴなあいつのあたりとかもうね…。たぶんあれは、何かを描いたり書いたり作ったりする人がみんな経験するやつなんだと思います。窮地に陥った時、大きな壁にぶつかった時、上手くなりたいという欲に囚われすぎてしまった時、そんなときに誰しもあのカラフルな空間に立ち戻って、純粋に「好き」や「楽しい」をエネルギーに作品を作っていたときの初心を思い出す。自ら描いた、へたっぴだけど愛の詰まったドラえもんにのび太が救われたように、自分の創作物に救われるというのは誰しもあるんじゃないかと思います。
だからあの場面は、一見いつものようにドジなのび太がドラえもんに泣きついて助けてもらってるように見えて、全然違うんですよ。
あのドラえもんはのび太が描いたただの絵でしかない。のび太を救ったのはのび太自身であり、のび太のクリエイティビティそのものだった。映画の序盤、迷いの森で「絵を描いた人の心が反映されているのかな?」みたいな発言がありましたが、のび太がドラえもんに全幅の信頼と友情を寄せているからこそ、あのカラフル空間でへたっぴドラはのび太を助けてくれた。
描き手の心は、絵に如実に現れる。
絵の中のドラえもんはテケレッツノパー(これが出てくるあたり、かなり脚本の人はオマージュ詰め込んでますね)とかしかしゃべれないけれど、ドラえもんのコアの部分、一番大切な本質はちゃあんと持っている。のび太の信頼がそのまま現れてるんですよね。そして、絶対に助けてくれる。
だから、自分の創作物を信じて良いんだと思う。
アートリア公国が完全にフィクションナーロッパじゃなくて実在していたという設定も良いですね。かなりイタリア感ある街並みや樹木。
見る前は単に、異世界の絵の中に入って冒険する話なんだろうな、あの少年少女は絵の中の登場人物なんだろうな、フィクションの世界に行って戻ってくる話だろう、と思ってたわけなんですが、良い意味で裏切られました。絵は二つの現実を繋ぐ単なるインタフェースでしかなくて、練馬区とアートリア公国はどちらも等しい階層にある。
異世界モノに見せかけて現実世界だから、悪魔チャイや伝説のイゼールといったファンタジックな存在は実在しない。あくまでひみつ道具によって絵から具現化しただけ、という設定なのでドラえもんの世界観を壊さない。
だからこそ、ずっと一緒にいたクレアとチャイが、マイロが描いた絵の中の存在だったというのが刺さる。
マイロはいったいどんな思いで、神隠しにあった幼馴染の姫君と、彼女が追い求めていた青いコウモリをあの絵に描いたのだろうか。国中を必死に探して、それでも見つからなくて、彼にできる最後のことがあの絵を描くことだったのだろう。
描き手の心は、絵に如実に現れる。
だからあのクレアはマイロの心の発露、マイロの生み出した願いそのものであって。
マイロもまた、自らの創作物に救われた一人なのだろう。
両親ですら絵と気付かなかったクレア。それだけマイロの絵の技術が凄かったというのもあるでしょうし、本人をまるまるエミュレートできるほどにマイロがクレアのことを深く理解し、万感の思いを込めて描いたのがあの絵だったのかもしれないですね。そう考えると、一見あっさりめだったマイロに壮絶なクソデカ感情が見え隠れしてきます。
絵から生まれた実在しないはずのクレアとチャイにのび太たちが人の心を感じてしまうのはもうチューリングテストだし、同じように単なる映画のキャラクターに対して僕らはもう実在しか感じない。
絵の額縁の外、本のページの先、映画のフレームに映らない部分にもきっと世界が広がっていて物語があるんだろうな、というオタクの妄想、そして作り手の想像力はひとりの人物、ひとつの世界をも創り出せるという最高の結論を示してくれた映画でした。ありがとうございました!