一期のシャルティア戦がめちゃくちゃに好きなのだが、そういう意味では派手な戦闘があまりなかったか。
狂愛、踊るラナー。個人的にもミュージカル風は好きだが、演出として嵌っていて素晴らしいシーン。
ラストだけでなく「幸せ」を語る部分といい、普通の人間のつもりでいつつ済し崩し的に「鞭」を国に適用し消すという異常性が特に印象的に描かれている。
「お姉ちゃん」には心の中でスタンディングオベーションである。
これの興味深いところはつまり我々(か知らないが少なくとも私)はまひろよりもみはり視点で物語を見ているという事だ。定点カメラの様な画角が象徴する様に、我々はまひろとなるというよりまひろを「見張」っている。まひろのフェティッシュな描写が多い事もそうだ。この作品はTSするというよりTSを見る物語なのである。
前話だったかもしれないが、みはりが非常に慈しむようにまひろを見るシーンが印象的。
教育番組の如く女子の日常生活を解説している。
思ったより下ネタ。
結構芝居が丁寧。彩りのある画面も良い。
タイトルは兄をもうやらないという意味なのか。単にTS物語という訳ではなく兄妹関係を批判的に解体する(滅びた言葉を使えば「脱構築する」)意思の表明という点で素晴らしい導入となっている。
貧困だの孤児だのを詰め込んだ前作が刺さりすぎたが、今作も素晴らしいのは間違いないと思う。(3.11にはあまり感情的なあれそれがなく、個人的な事情でより身近であった長野県北部地震の話を誰もしないのを見て絆だの何だのは結局欺瞞なのだと思った記憶がある)
鈴芽が自分のトラウマ治療をあくまでも自分自身で行うのが良くて、草太さんのお蔭で…などとやっていたらギャルゲの視点を替えただけという恐ろしい作品になっていただろう。
自分が死の恐怖を克服できないタイプの人間なので「生きるか死ぬかなんてただの運」と言い放つのも衝撃的だった。(それは鈴芽の心が常世に囚われているからこその台詞であったが)
あとRADWIMPSのMV的な作りが無くなったのも良い点。物語作家が他人の言葉を借りていては世話がない。
ただダイジンの扱いは気になるところ。この為に前作では非常に一貫していた自然中心主義の思想がブレている様に思えてならない。
因みに天皇制がどうのというのはただの妄言なのであまり真面目に聞く必要はない。自分の持つ問題系とその辺の流行っている作品との関連性を何とかこじつけるのが昔ながらの評論家式ルーティンなのだ。