阿良川一生がからしの落語を、にべ無く一蹴しなかったのには驚きだが、志ん太のときとのダブスタのつもりではないんだろう。昔も今もおそらく、変わらない一点を考えてやったことなのだろう。
阿良川一生は十八番となる「古典落語」を、丸ごと一新はせず型を外したやり方で噺をするような者のことは、自分の落語家としての平衡を崩す“邪魔者”だと考えて間引いたり、観客を出しにして聞き手を選別したりというもので、落語界での自分の地位を保とうとしているんだろうか。
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