冒頭で演じられた修羅の朗読は未熟な花奈や杏が求める完成形に近いものだったのかな。だからか、それまで充分だと無意識下で思っていた己の慢心に気付ける
満足しているなら完成と言える。けれど不満足を覚えるなら、それは少しでも完成していない。花奈が修羅の舞台を見て、冬賀が花奈の演技を見て、直面した完成形はそれぞれに不満足を覚えさせるものとなったようで
花奈の不満足は個人としての向上心が主となるから気持ちが良い。川辺りで決意を叫んだように、その不満足にはどこか美しさがある
対して冬賀の不満足は集団活動において不協和音を齎すものだね。ドラマ作りを始める際に指摘されたように、こだわれば終わりがない。けれど締め切りを目前に控えた中でも、不満足だから作り直したいなんて言うのはとんでもない我儘なわけだ
折衷案は提示されたものの、冬賀の不満足が集団において我儘である点は変わりない
それだけに自己主張が弱い箱山が彼を羨ましがり褒めて、その上で彼の根底を知って向上策を授けるのは少し意外だったかも
箱山にも不満足はある。だからと羨ましい冬賀を完成形と思わずに寄り添う対象としたのは良かったな
箱山がそう接してくれたから、かつては部員と対立した彼も集団の中で満足いく音へと辿り着けた
冬賀が言うピアノは普通、それを物足りないとの意味に解釈すれば、インスピレーションを求めて街を彷徨う時点で間違いだったのかも
彼に必要だったのは集団で得られる完成形、いわばたった一つの楽器から鳴る音ではなく人の声も環境音も奏で合うシンフォニー
それはもしかしたら部活動では当たり前で普通かもしれない遣り方。そうして満足いくものを作り上げられたなら、冬賀にとって、そして放送部にとってもあのドラマは完成形に至ったと言えるのだろうね