多くの人が知る『人魚姫』の物語、それは昔のお伽噺であるが為にどこか古めかしい。そんな物語を本作はこれまた最近の画風から外れた古めかしい絵柄。故にオーソドックスで無かったり、耳馴染みの無い要素が目立っていたような
本作では対義語を巧く使っていた印象。人魚達は人間を醜いやら呪われてていると侮蔑し、自分達こそ美しいと表現する。けど、王子はララの尾鰭を見て「醜く悍ましい」と表現する。美醜の基準が人魚と人間で対立していると判る
一方で呪いの対義語と言える”祝福”は人魚として道を踏み外すララに対してしか使われていなかった点は興味深い。だからこそ、本作は本物の”祝福”を目指す物語なのだと思えたよ
ララの周囲では皆が人間を醜いと蔑み自分達こそ美しいと誇る。でも、幼いララは人魚の世界に目を輝かせたりはしないね。むしろ人間の世界を垣間見て目を輝かせる
そんな彼女が何を美しいと感じているかなんて言うまでもなく。彼女が助けた王子をどう見ていたかなんて判りきった話で
でも、人魚と人間の世界は分かたれているし、人魚は人間を侮蔑している。ララが人間に近付くには人魚を辞めるしかなく。そんな判断を果たして”勇気”と呼べるのか、与えられるものは”祝福”か?どこまで信じて良いか判らないグレイスの言葉はララに真実を見定める機会を提供する者となるね
王子に真の姿を見られた際、ララは「私って醜かったんだ」と嘆く。これは王子にそう呼ばれたとの面もあるだろうし、人間を愛してしまい人魚から外れた自分を評する言葉でもあるのかも
人魚から外れたララの”勇気”はララだけの破滅で済むと思うもの。けど一族に与えられる滅びは人魚が人間になってしまった事で得てしまった人間が持つ”呪い”なのだろうか?
だとしたら、ララは家族を助ける為に”祝福”を掴む必要があって。深海から陸…どころか空へ打ち上げられたララ、そんな彼女を助けるどころか殴っちゃった茉里。人魚と人間の出会いはこのお伽噺にどのような”祝福”を授けるのだろうね?