うーん…。やはり、鬼夜叉が稽古以外で得た感覚と、古典的・形式的な能が結びつかない。生物としての生活に接続した原初的な舞やコンテンポラリーダンス的な舞に見出した良さが、あの形式的な能の動きにどう活かされているのか、作品を見ているだけだとまったくわからない。
非常に高い要求をしていることはわかるし、出来なかったとしても仕方ない面があるのも理解できるが、この作品自体が明らかに身体表現としての舞、芸とは何かをテーマにしており、それを幼少期の鬼夜叉から描く以上、作品は成長と変化によって芸を描くアプローチを選んでいる。その作品をアニメにするのであれば、鬼夜叉が得たものを、舞の変化として映像でわかるように表現して欲しかった。正解なんて誰も知らないのだから、正しいかどうかはどうでも良い。物語を、テーマを、映像で伝えて欲しかった。
猿楽はモノマネを含むもっと猥雑な大衆芸能だったものに、観阿弥が物語や歌謡を取り入れたという話で、世阿弥が幼い頃ならばまだ大衆芸能色が強く、形式化されていくのはもっと後なのではという疑念もある。室町時代はこれが大衆芸能として楽しまれていたのか。大衆に受け入れられる芸能が生物的・原初的な舞と近いとするなら、今と昔でそこまで乖離があるとは想像しづらく、さすがにこの能のスタイルが大衆に楽しまれていたとはどうしても考えづらいのだが…。もしそうであれば、この時点ではもう少し原初的な猿楽として描けば、原初的な舞やコンテンポラリーダンス的な「良さ」と接続しやすいし、鬼夜叉の成長を猿楽の変化と同期して描けたのではないか。私が今のアニメ上の表現を完成した能としか認識できていないだけで、ここからまだ変わるのかもしれないが…。
スタッフを見ていると、シテ方観世流のちゃんとした人が型付・監修をしているようで、型にはまった能から外すことが難しく、接続が難しくなっているのではという気もしなくはない。一方で、東京五輪の振り付け師のような現代的な振り付けスタッフも入っており、そこの統合が少なくとも物語の表現としてはうまくいっていないように感じる。もしくは、原作者の考えた原初的な舞と能との接続がそもそも無理筋だったのか。
また、義満が秩序のために能を用いたというのは通説らしいが、それと自然や美を直接結びつけるのは無理があるのでは。仮に作中の義満がそう考えたとしても、義満の考え方…ひいては作者の考え方にもいまひとつ賛同はしづらい。現実は別にそんなものではなく、自然が無秩序を生んでもたらす美もあれば、秩序によってもたらされる美もある。アニオリで補強された台詞でよりこの違和感が強調されているが、この作者らしい感覚的な飛躍にも感じた。