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ぷーざ
@pooza

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本日の朝実況。ネタバレあり。

みのりんの自信のなさの大元は、結局は「マーメイド物語」での失敗に向き合えないことだった。
目の前で苦戦している友達を救う為にプリキュアになることも、「ローラの尾ひれに触れる」ことも、どちらも同じこと。それを決断する為には、少しの勇気が必要。それらの課題の克服を彼女は「リアル」と呼んだ。
現実に向き合い、困難をひとつずつ克服していくことが夢につながっていくとされる。その都度必要になるのが勇気であるという位置づけ。

ある意味、キュアパパイアは仮免プリキュアなのかもしれない。でも実際にはプリキュアに変身することもできるし、本作は「それでも構わない」というシリーズなのだろう。この物語でのみのりんのテーマは、勇気なき者が困難を克服し、最終的には創作活動に復帰すること。
夢をつかむ為に必要なのは、現実での困難をひとつずつ克服することの積み重ねである。…その様なシリーズ構成を俯瞰できる、1周したあとに改めて観ると感慨深い回だった。

みのりんの創作物である未完の小説「マーメイド物語」は、人魚姫を意識したもの。
本物の人魚であるローラは、人魚姫が泡になって消えたと聞いて憤慨した。曰く「人魚姫の気持ちが理解できない」と。ローラ自身ものちのち、人間のような足を得てプリキュアになるが。人間と人魚に自在に変身するローラの活躍は痛快で、人魚姫のような悲しい展開や結末はトロプリから意識的に排除されている。
人魚姫にある儚い悲劇として要素は、秋映画のゲストキャラである「雪のプリンセス」シャロンに引き渡されたのかもしれない。



全体
良い
映像
良い
キャラクター
良い
ストーリー
普通
音楽
良い

2回目視聴。以下ネタバレあり。

物語の最後に和解した以上、敵キャラの気持ちもわかりたい。悪事を行っていたとしても、動機や行動原理に「一理ある」部分を見つけたい。
常々そう思ってプリキュアを観ているけど、敵キャラであるケット・シーの気持ちは視聴2回目でもよくわからなかった。

大人の科学者たちが、ケット・シーを騙していたことがほのめかされている。
しかしこんなことで、「大人」という格別に大きな主語で善悪の線引きをされてしまったら、その大人のひとりとしてはたまったものではない。ケット・シーの言う大人・子供(つまりは善悪の境界)は、曖昧にしか明かされなかったこのエピソード同様のふわふわしたものだった。
エナジー妖精たちは子供。マリちゃんは大人。ゆいたちは中学生だから子供。プリキュアは最初は不明(△)だったが、ケット・シーに敵対する行動を取ったことによって、最後には大人の側に分類された。ケット・シーが自分に都合の良い基準で「大人」を線引きしていたことは、この悪役への共感が難しいことにつながる。

一方のプリキュアたちも、その時点ではまだ自分たちに危害を加えていなかった警備ロボットと戦う為にプリキュアに変身した。
本作全体の善悪観がふわふわしていたと感じる。

本編での扱いに関わらず、ED曲はドリーミアのテーマソングだった。ドリーミアの本質は、最終的には善であったと扱われていた様だ。
コメコメも気付いていた通り、ケット・シーが用意したお子様ランチやアトラクションが子供たちを楽しませていたことは確かで、なるほどそれは、ケット・シーに残されたわずかな善性だったことは間違いないのだろう。
だからこそ彼は、自身の罪の償いについて「コメコメのようなヒーローに自分もなりたい」と言うのではなく、「大人も子供も楽しもう」と言わなければいけなかった。大人と子供の垣根なく、皆がドリーミアを楽しむラストシーンが最後に必要だったと思う。

そう、「大人も子供も、お子様ランチを食べてもいい」。
なごみ亭に集まった皆に、ゆいママがお子様ランチを振る舞うラストシーン。この償いは本当はケット・シーがしなければいけなかったことだけど、その代わりとして、まぁ悪くない。
初見の時に感じた程は、この作品のストーリーは悪くないなと2回目に思い直した次第。

最後に冒頭、ゆいとケット・シーがお子様ランチを食べる回想等について。
このシーンのゆい、ケット・シーに向けた満面の笑顔は素晴らしい。デパプリは初回冒頭、ゆいがおにぎりを食べるシーンも印象的なものだったけど、このキャラクターには人を惹きつける絵ぢからが確かにあると感じる。
ゆいとコメコメは、彼が今もお子様ランチを作り続けていることから、上で述べた様な「わずかな善性」を見つけ出た。ケット・シーの気持ちは今回もよくわからなかったけど、一方のゆいやコメコメの気持ちは尊いものだった。



普通

本日の夜実況。
ひめのドキドキを「つり橋効果だった」でまとめてしまうのは感心しない。

ひめはちゃんと誠司のことが好きだったでしょう。
そのほろ苦さを描くつもりがないのなら、この回自体がないほうがよかったぐらいだなぁ。



とても良い

本日の朝実況。前田愛生誕祭を兼ね。
馬上戦闘の格好良さから、どうしてもこの回を選んでしまうけど。

気迫あふれるキュアアクアの雄叫びと同様、かれんがミルクに向ける優しい表情の作画もすばらしい。



良い

本日の夜実況。
前回から引き続き、ひめ×誠司の展開。

誠司をいじっていた時のひめの表情が、たまらなくウザくてよかったw
別人のように成長したひめだが、以前と変わらない一面も持っている様で少し安心する。



良い

2回目視聴。
クッキングダムの「おむすびの花」とか「おかず池」とか、頭おかしい設定が最高に楽しかった。(ほめてる)

セクレトルーは戦闘能力もさることながら、隠密行動に長けている。
その名の通りの「怪盗」らしい動きをしている敵幹部は初めて。曲者っぷりの描写がいい。

理由もなく過去キュアを登場させるのは好きではない。
ラストの脈絡ない登場は蛇足と感じた。



良い

本日の夜実況。サブタイ通りだが、笑えるぐらいフラグが立ちまくる。
次回の展開にもつながっている、ひめ×誠司がなにげに重要。この関係をもう少し丁寧に描いて欲しかった感はある。

入ったばかりのいおなが、既に気配りさんキャラのポジを築いていて好感。
ゆうゆうは達観しすぎていて、もう別格。皆と同じ中2だというのが怪しく感じるほど。



とても良い

ジャンプコミックス36巻収録分。

「ぼくのトモダチになってよ…!!」
幼いダイの神々しい台詞に、全てを持っていかれた。この様な安易な表現を使いたくはないが、まぎれもない涙腺決壊回である。
最終決戦の真っ最中、言わば決着の直前にこの様な情緒あるエピソードが挿入されるのがダイ大の懐の広さ。ジャンプらしいバトル漫画でる一方、この懐の広さでは他作品と一線を画する。
また、この回の演出スタッフとして、タナカリオンこと田中裕太氏をお迎えしたことを喜びたい。同氏はプリキュアファンなら知らぬ者のない、東映のエース演出家だ。(演出家の枠には収まらず、監督としてもいくつもの良作を手がけている)

それにしてもゴメちゃんの正体や真相が、これほどのドラマを生み出すことを初見では全く想像できなかった。
というのも、ゴメちゃんがごく普通のマスコットキャラであり、正体に特に秘密などがなくとも、物語として特に不自然なところはなかったから。ゴールデンメタルスライムという希少種はいてもおかしくないし、その程度に特別な設定もご都合主義にはあたらない。

ゴメちゃんは自分の正体である「神の涙」について、「地上の力なき生物たちの苦しみを嘆いた神々が、地上に落とした一粒の涙」であるという伝説を語った。
大魔王や冥竜王は地上や太陽といった豊かな創造物を、脆弱な人間に対してのみ与えた神々のことが許せなかったという。「神の涙」は言わば、その贔屓へのさらなる上乗せであり、大魔王にとってゴメちゃんは憎悪の対象でしかないだろう。
ゴメちゃんを文字通りにモノであるかの様に、ぽんぽんと弄んでいた描写からも(アニメオリジナルのシーンだけど、この描写はタナカリオン采配なのかも)、少なくとも愛情は持っていないことがわかる。

しかし、自ら善悪を判断して「トモダチになってよ」というあまりに純粋な願いを叶えたゴメちゃん(こと「神の涙」)や、その「神の涙」を創造した神々の本質が悪であろうはずがないとも思う。
神々は本当に大魔王が言う様な、理不尽で許し難い存在だったのか?自分たちに太陽が与えられなかったことは、確かに許せることではあるまい。その答えは、「では結局、太陽とは何だったのか?」という疑問と共に答えられるかもしれない。

ポップがカイザーフェニックスを魔法力で切り裂く、原作でも大好きだったシーン。ここは恐らくタナカリオン氏により、原作以上に見ごたえあるアクションシーンへと魔改造されている。
自分はこの名前のない技を、ストレートに「神業」と呼んでいる。恐らく、メドローア以上に難度の高い技術であると想像して。
別の場所で話したことがあるけど、この「神業」から更に想像できることがいくつかある。以下、その想像というか妄想。

  • 大魔王は、両手から別々の呪文を放つことがどうやら出来ない。(これを行ったポップを「器用」と評したことがある)
  • この技術はメドローアの基礎であると考えられるけど、大魔王の桁違いの魔力の量はともかく、技術的にはポップやマトリフに及ばない。
  • カイザーフェニックスはメラゾーマにすぎない。ポップはカイザーフェニックス以外のメラゾーマも同様に裂くごとができる。
  • メラとヒャドは本質的には同じ呪文。ポップは、自分に向けられたヒャドも同様に裂くことができる。


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