サービス開始日: 2019-01-14 (2832日目)
褒賞が土地だったり貴族が領主やって徴税して私兵を持ったりして、ちゃんと中世しているのが良い。
展開についてはなんでアルコールが魔物に効くんだとか、グラスは浄化なり何なりできないのか(初登場の強者感はどこへ?)とか、ところどころ雑な気もするが演出でどうにかなっている。
しかし最終回にしてもラフタリアの「どこにも行かないで」に結局答えておらず、関係性的に言うと第4話以上のものはそれ以降描けなかった様にも思う。
あと槍のヘイトをコミカルな描写で下げているがあまり成功していない印象。
グダグダと同じ戦いを何週も扱ったりしないテンポ感はいいが、思い返すと気になる点も結構ある。
ただ一瞬で品種改良だとか実はチートな事をしつつ、馬車を引き時には傷つき苦労しながらやっている為か、あまり嫌味な感じにはなっていない。序盤のストレス展開だとか人間の愚かさに耐えられるのなら割と楽しめる異世界ものだと思う。
再び奴隷にするというのは現代人としては止めるべきと思うが、どうもこういう展開が好まれている様で🤔となる。前回はっきりと心理的な絆が確立された訳だから、個人的には不要ではないかと思うのだが。
槍はすっかり端役の様な感じで、マインの方は冒頭の女性からの命だろうが他国に嫁いでいる女王といったところだろうか。
土地(徴税権)を褒賞とするのは正しく封建制だが、この手の作品では稀な印象で面白い。
元康らが強引な手を重ねた結果やっと少々胸のすく展開となる。むしろマインの方が国王と共にやや黒幕染みたり、教皇の意味深なカットが入るなどの点も見逃せない。弓・剣の物言いは第1話の反権威的態度がある為に割合納得感がある。
「(元)奴隷による肯定」というモチーフは槍の言った様な「結局ストックホルム症候群的な心理ではないか」という問題があるが、ここでは第一にラフタリアの方が剣であるという関係性において、また大局的には女性優位だという文化環境によって補強されている。これは作品の「盾」というテーマが上手く働いていて面白い。
最後の食事も良い場面で、それはラフタリアが貰った「温かい食事」のお返しであり、また二人の共通性を示すものでもある。ラフタリアが「精神障害」と言われていた事を考えれば、尚文の「味がしない」というのも単なるテンプレ表現ではなくストレス性の味覚障害だという事だ。
『エイティシックス』の第1話で「これ要するにガンスリですよね?」と思ったので本家? を観ることにした。
この作品の重要な要素として、少女達に与えられた「義体」と「条件付け」がある。特に後者については公社の大人達が少女の自由意志について考える契機となり、彼等はどう向き合うべきなのか思い悩む。
ここには伊藤剛が指摘し、文化庁メディア芸術祭の評にもほぼそのまま引かれている様にキャラクターの人工性に対する批判的態度が読み取れる。(余談だがテキスト論的に言えば「読み取れる」とは単にそう解釈が可能という事であり、作者が意識したか否かとは一切関係ない。)
「美少女と銃」というモチーフ(斎藤環が寄ってきてファロスがどうのと言っても気にしてはいけない。ラカン信者の妄言である)の中でもガンスリは割とシンパよりオリジナルの部類だと思うが、「ブルーアーカイブ」の様な高度にアクセサリー化している銃と比べて何と重々しい事か。それは確かに血を流し人を殺す銃なのだが、ヘンリエッタは「役に立ちたい」と素朴な願望だけで引き金を引くのだ。その鮮烈な対比に「条件付け」の異常性が印象付けられる。
つまるところ公社は端から非倫理的であり、どう思い悩んでも言い逃れなどできない…と言いたくなりもするが、義体研究といういかにも金の掛かる課題にはそれなりに軌を逸した見返りが無ければそもそも取り組まれない可能性も高い。まぁ言っても仕方がないだろう。
「これは条件付けかもしれません」「それでも良いんです」本当に良いのかと言えば、我々は自由主義の下に生きているのだから当然良くはないのだ。彼女達は明らかに担当官に対して依存している。ただそれは生易しい関係ではなく、エルザのエピソードで端的に示されている様に狂気的ですらある。ここには人工性=都合のいいもの、という解釈を超えたテーマ性が示唆されている様に思う。彼女達は確かに他者として息づいている。
最終話、アンジェリカは星降る夜、マルコーとの絆を思い出し、歓喜の歌と共に眠る。それは確かに幸福だろうが、人間の一生とはそれで「十分」と言えるものだろうか? 否と言いたくなるのが現代の感覚であり、だからこそ切ない場面となるのだ。
いつ止まるとも知れぬ義体、消えゆく記憶、死を恐れぬ意志、全てがあまりにも刹那的だ。そしてそれは『風立ちぬ』(ジブリ)の様な敢えて選ばれたものではなく、そう差し向けられたものだ。それでも彼女達は歌うのだが、最終話のその場面に担当官が不在なる事を考えてみると、最初に触れた様な観点とは裏腹にこれは(少なくともアニメでは)あくまでも少女達の物語なのかもしれない。
「チート」がキーワードになっている割には普通に修行したりして、ジャンプ的王道に沿った筋になっている。
正直話としてはあまり面白くないが、問題は主人公達の個性の薄さだろう。
まず太一はアナスタシアを失った一件から結局は殺しも厭わず力を使う覚悟を固める訳だが、その結論はあまりに凡庸(「大いなる力には大いなる責任が伴う」というのは聞き飽きた言葉だろう)で「人を越えた力」には及ばない。王弟の言葉にしても単純な受け売りで碌に咀嚼せずに繰り返し、「犠牲」などと宣う。犠牲というのは結局力無き者の言葉であり、それを超越して全てを救おう(つまりホッブズのリヴァイアサンが如く全ての争いを阻止して和平を促せば良いのだ)ともせずに「人間卒業」と言ってもつまり倫理観を喪失したとしか聞こえない。何を考え、どうしてそう選択したのか? それを描かず人並みな結論だけ述べても何の魅力もないのは当然だろう。
凛については第9話「私は私の意志で飛び込んだ」というのが一番大事なところだろうが、演出が弱く第1話のシーンにおいて全く凛に感情の籠った芝居をさせていないため実感の薄い台詞になってしまっている。癖のない良い子なのは個人的には別に良いと思うが、いずれにしろ内面描写が貧弱で魅力が出ていないのは確かだ。
一番魅力的に描かれていたのはアナスタシアではないかと思う。彼女ははっきりとアサシンとギルド側での二面性を区別して描かれており、収監中の描写も加わることでその転向の決断を強く示唆している。ギャップを利用した内面の演出が上手く働いていると言える。
全体的に言っても「あの方」の情報は碌に開示されず、主人公はただ戦争に巻き込まれ「人殺しも止む無し」という後退した倫理を得て終わる。それを本当に「強さ」と言っていいのか、戦争を止めるという選択はないのか、結局は地位と名誉を得ただけではないか。ある意味で批評性は高い作品。
ただしかしタイトルを考えてみれば、「チート」の不条理さ、千年に一度の才すらも無に帰す圧倒的な力、そうした表象を全く物語に落とし込めていないのが最大の問題かもしれない。
よくある合宿回をやりつつも、侑の決心、歩夢に生まれる不安を丁寧に描いていて良い。
あの液体をまともな味にできる彼方はかなりの達人ではないか?
果林回…としてはちょっと弱かったかなという感じだが、ソロアイドルとしての在り方をはっきり示した回。ステージにはソロでという縛りによって、むしろグループアイドル的な関係性の力学を強化しているとも言えるかも知れない。
しずく回。自己表現については第5話でも扱っていたが、ここで重要なのは「演じる」という観点だ。
アイドルの文脈では、メディアアイドルの時代の演じるアイドルから、ライブアイドルの時代のそう生きるものとしてのアイドルへという歴史がある。アイドルコンテンツのリアリティショー化に伴って、アイドルは理想像を演じるのではなく自分自身の表現へと主軸を移した。(この点で演じるタイプのかすみが登場するのは理に適っている。)とはいえ演じる要素が消えた訳ではなく、「表立って演じる」事によりむしろ本人のパーソナリティが際立つという事態が発生した。これはかすみに典型的だし、しずくが最終的に白黒合わさった衣装になるのもそうした止揚的な解決と言えるだろう。
この回ではこうした文脈を踏まえつつ、演劇部というプロフィール、今までのキャラ立ちしない描写が一気に「桜坂しずく」へと結実している。