サービス開始日: 2019-02-01 (2147日目)
シリーズ『化物語』の前日譚『傷物語』(第零話「こよみヴァンプ」と副題)が原作の劇場版アニメ3部作『傷物語 I 鉄血篇』、『II 熱血篇』、『III 冷血篇』の総集編映画が『傷物語 -こよみヴァンプ-』(ふと考えたらややこしいですね)。
私はあまり総集編と意識せずに観ました。
最初に意識していたのは情報の出し方のうまさでした。私は吸血鬼だ。「私」がそうなった経緯。それ(その吸血鬼)がそこにいた経緯。安全地帯を得た経緯。(吸血鬼にしても)異常な強さ(疑問)とその理由。食事。…疑問が答えになる時期が心地よかったです。また3Dと2Dの混ざり具合に相当の労苦を感じました(労苦を感じつつ、現実世界で私はどうして、人間と都市の混ざり具合にどうして私は違和感を感じないのだろうとも思いました。都市の建物のツルツルした質感に対して、ヒトの肌はザラザラしています。不思議です)。
羽川翼の側で観ました。本当に阿良々木暦に好意を持ち、自分本位にこの一件に関わろうとしています。本当のことしか言っていません(と考えると、本当のことしか言わない人の「本当」はおそらく本当と言えないのではないか、と思いました)。その好意は阿良々木暦には伝わりません。その視点からは全く聖人の行いに見えます。なぜなら、阿良々木暦は人が自分に対して好意を持つこと自体を受け止められないからです。
なぜ総集編と感じなかったかで言い直してみますと、私はかつて阿良々木暦の側で観ていたからだと思います(3部作からそうだったのか、総集編でその側面が強まったのかは昔の記憶が曖昧でわかりません)。その視点から見れなくなってると強く意識しながら観続けました。
河原の会話で特に強く意識されました。話している内容が全てではありません。なぜ話し続けているのか。他愛もない話を、です。決戦前夜のキスショットと暦の会話でも同様のことを感じました。体育倉庫の会話では(昔嘘かそうでないかで考えたのを思い出しました)嘘は目を瞑るようなものだ、と思いました。嘘をつく時は目を瞑る、とは違います。
羽川翼の本当のことが阿良々木暦には通じません、そのことが昔はわからなかった気がします。(確か)忍野メメが羽川翼を語る場面で、鏡(鏡のような建物のガラス)に映る羽川翼に、鏡の様な目を持つ少女だと思いました。キスショットの本当のことを阿良々木暦に伝えてしまった羽川翼は眼鏡の奥で目を強く瞑ります。鏡のように一致していた何かがずれ始めたと思いました。
阿良々木暦には通じません。適用されません。本当のことの有無で対応が変わらない様には普通の人はできていないからです。殺せなくした罪が恐らく、頭痛になって(と分かるのは原作シリーズを知ってるからかもしれません)羽川翼の場面が終わるのが印象的でした。
別の書き方でメモしていたのでそちらも残してみます。言葉と状況が矛盾します。例えば、「みんなが幸せになる方法はない」と忍野メメは告げて黙ります。もしもそれで終わりなら立ち去るはずでした(立ち去らないことには意味があり、それに羽川は気づいていました)。結局、忍野メメは自らの信条とする「バランス」を放棄して話し出しました。それは忍野メメにとって(重大な)ルール違反だったろうと思いました。
大人形態に戻ったキスショットが、話すこと自体に意味がある、と阿良々木暦(我が従僕)と他愛もない話をした場面が好きでした。
念のために追記です。現実に、全ての言動の裏に裏の意味があるはずだ、と考えると、やばいことになるので、その点は念のために注意喚起します。人は結構雑に生きていると思います。
吸血鬼ものってしばらく気づかなかったです。それ知って見に行きたかった…って思いました(本予告見返したら一瞬だけ「吸血鬼」の文字が映ってましたが印象に残ってなかったです)。ちょうど傷物語も編集再上映がされていたので、そちらと比べると、傷物語を直球の吸血鬼ものだとしたら、こちらは相当な変化球と感じました。傷物語は影がなかったり、十字架に弱かったり、太陽が弱点だったり。伝統的な(といえるほど吸血鬼に詳しくないのですが)吸血鬼観に沿った吸血鬼だとしたら、こちらは不死身を持っただけの人間族がヴァンパイア(吸血鬼)族と呼ばれている、くらいの吸血鬼度で、血も吸いません。ということを見終わってから考えていて、むしろ主人公(ダブル主人公の男のほう)だけが血を吸う必要があるという意味で吸血鬼の真祖になった話とみれるかもしれないと思いました。
補足。TVシリーズのPVだけ見ていて、ちょっとだけ気になっていたけど見忘れていたな、映画で上映されるなら見てみようかな、くらいの興味で見に行きました。
なんか、思ったより好きでした(思い出補正であまあま評価になってるかもしれません)。
オープニングでコミカライズ紹介のところで、なかよし掲載と見えて!?!?と思いながら見ました。
麻雀の上がりの説明がわかりやすかったです。昔てきとーに検索して得た知識とCPU対戦機能で麻雀知ろうとして、役満が印象に残って、人じゃない相手の気楽さとてきとーに捨ててもなんとかなる雑さも手伝って、33332の仕組みを理解するまで数ヶ月かかりました(さすがに毎日じゃなくて、遊ぶ時も暇つぶしに数分くらいでしたが)。今日はこれだけ覚えたら帰っていいよ、って感じのラフさで、かつ麻雀の最も重要な点は抑えられていて感服しました。
電動雀卓、略してじゃんたくん(電動要素はいずこ)とか、雀(雀ではない)は索子のあれから来たのかと納得したりとか、好きでした。麻雀まんがネタはあまりわからなかったです。
麻雀のまちがった遊び方(ルール違反の失敗)をいろいろやってみせるあたりは掲載雑誌的にきっと大切よねとも思いつつ、私がよく知ってるのは将棋で、そちらの本将棋とは違ったルールで色々遊んだ記憶を思いだして楽しかったです。待ったありとか序の口で、ワープとか、(大劣勢になってから)今からあなたの持ち駒全部私のものねとか、無法で遊んでたことあったなあと懐かしくなりました。リーチの音声で遊んでたところも思いだして、将棋も別に駒を進めるだけが遊び方じゃなくて将棋崩しで遊ぶのも楽しかったと思いだしました。
そういえば、チョンボ(妖精)が登場する場面で、ひかるの碁メソッドと思いました(たぶん碁盤から登場、雀卓から登場で)。その後、姿は見える(し麻雀牌も触れる)けど声はなしこ意外聞こえないとわかったのはちょっと違っていてちょっと面白かったです。
そういえばそういえば、最初のほうの雀荘(好きにしていい場所)をほしがる動機とか、話の展開に必要最小限の動機付けで、そのそっけなさにウケてました。後から考えると対比的かもしれないとも思いますが、最後に登場した謎の転校生枠(枠。と勝手に思った。別に転校生ではない)のミステリアスな子は、めいっぱい麻雀したい気持ちが詰めこまれた前のめりな話しっぷり(話聞かなっぷり)で、もっとちゃんと会話してって思いそうなのに、何かとても好印象に感じました。なんだかんだいっても、ハスに構えた言い方をしていても、やっぱり遊び(ゲーム)は楽しいから続いてきたわけで、その熱量なくしては始まらないのでしょう。
ということで、思ったより好きでした。
あ、その場面の夕日が綺麗で、尾道の沈む夕日見てみたいなあとも思いました。
追記 数分と書きましたが、実際に久しぶりに遊んでみて、数分の体感で数十分が溶けました。気づいたら夕方、は麻雀あるあるかもしれません。
エンドロールの小物とポケモンの組み合わせで色々思い出せたり幸せな気持ちになれたり、最後まで素敵でした(マダツボミありがとう)。
大きな声が出せないピカチュウのおはなし(ピカチュウ天国を作りたかった、一片の悔いもない!と聞こえてきた気がします)。ピカチュウの側からハルに声をかけてるのがよかったです。ちょっと怖がることにも挑戦するので。まず動いてみようといろいろ実行していくハルはいっぱい失敗します。でも、そうやって生きてきて、まずは動いてみたからハルはここ(ポケモンリゾート)にいるんだと思いました。
パートナーの少年、ナオはとても楽しそうに物事に駆けだしていきます。
ヒトもポケモンもそうそう変われないもので、遊びつかれて眠るピカチュウとコダック(コダックがピカチュウに合わせて眠って、これはもしや…「ねむる」!と思いました)を絵に描いてみて(上手く描けないと思って)、ハルはしっかりしなくちゃ(ピカチュウらしくならなくちゃ)いけない思いにとらわれていたことを省みます。
帰る時、楽しそうだったナオに、ピカチュウも嬉しそうでした。はた目にはちょっと近寄りがたい、けれど心底幸せそうだったハルに、ピカチュウは惹かれたのかもしれないと思い出しました。
ポケモンリゾート、ポケモンのリゾート。この島では、きっとヒトがポケモンのパートナーです。ヒトもポケモンのように楽しみます。ポケモンになります(とはいっても、ヒトは命綱をつけていたように、完全に同じにはなれませんが。同じところでコダックは身体能力としてはやっぱりポケモンなんだとも思いました)。
ヒトらしさ、大人らしさを忘れて、ただ遊ぶってどうやるんだっけとどわすれしていたことを思い出して、大人になったことは変えられなくてもただ遊ぶことができると思えました。素敵なおはなしで、ありがとうと言いたいです。
小さい頃大切だったおもちゃって、大人になると昔みたいには夢中になれなくて。楽しかった遊びが役立つこともあれば、楽しいだけでよかったり。最初のハネッコの進化する場面が心地よさそうで心ほぐれました(森の鳴き声に混ざるコダックの鳴き声も)。ゴローンの居た岩場は昔の(もしかしたらイシツブテだった頃の)遊び場だったのかな。アリサはロッククライミングが得意。でもヒトは岩登りはタイプじゃありません。コダックも、水タイプでねんりきはタイプじゃなくて(きっとだから最初から上手くはないんですね)、泳ぎが得意じゃなかったコイキングは他の誰より泳ぐ楽しさを知ってると思います。飛べなくても、ヒトもポケモンもそらをとぶ楽しさを感じます。
言葉にしちゃうと、得意なことでがんばったほうが効率いいとか、苦手なことでも楽しいのが大事とか、むむ〜となってしまいますが、そうならない肌ざわりが好きです。
マダツボミが好きかもと思いました。ディグダがうきわを打ち上げるのにほっこりしました。
ハルのモンスターボールのマドラーに目をひかれて後から見かえして、なんとなくこれは手作りなのかなって思いました(映像内全部手作りなんですけどね。頭が下がります)。
ナタリアから見たレーニャが語られて、これはきっと(今まで見てきたからこその)一番に好きな話になると思いました。ナタリアが持つレーニャの印象はレターナ(レーニャ)自身から見えていたものとは違っていました。ヒーローのようなレーニャに憧れたナタリアは、スピリッツにとっては最初から大人だったナタリアで、ナタリアにとってターニャ(スピリッツ)はヒーローになっても可愛い子で(照れてるスピリッツの全身絵を外枠にしたところ好きでした)、物語に語られることのできなかった世界の見えない深みを感じました。
テル(シャイ)を忘れていたスターダストにも、テルにとっては一大事だった修行は彼にとってはなんて事のない日々の一幕に過ぎず、彼が話したヒーローとしての矜持(助けたヒーローの背中が丸まってたら、助けさせてごめんなさいと思わせてしまう。そんなことはさせない)は修行相手(仮想敵)の時に見せた姿とは違ったもので(かっこよかったです)、深まりを感じました。
シャイが帰路、一瞬ひとりになって空に一番星を見て、アマラリルクのことを考えているその眼鏡に一番星が映りこむ絵が、なんともいいようがなくとても好きでした。人の深みを考えていたからか、シャイで人と接するとあせあせしてしまうシャイの、深く人を考える場面が印象に残りました。
後半の場面はすずめ(記憶あやふや。何かの小鳥)が空をとぶ場面から始まって、ぐっと目をひきつけられました。その後飛行機も飛んで、シャイの体調がわるそうな様子で、心がふわふわしてる感じなのかなって考えました。そんなことを考えていたので、後のアマラリルクの空間で太陽(のような目)が近かったと思いました。テルの家でテルが惟子にお世話されてる間(もうちょっと前、家に着いたあたりからだったかもしれません。すでに亡くなっていることを思わせる(思い出させる)姉の写真か、あるいは弱ってるテルの独白で連想されたのやも)、レターナとナタリアのことを思い出しました。ふたりも、もしかしたらこんな風になれたかもしれなくて、こんな風だったかもしれなくて、と思って、けれどそれは過去を悔やむ気持ちではなくて、だからこそ名前を呼ぶ場面が幸せでした。