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演出も作画もヒドイものなのに、(原作通りの)脚本の力だけで泣かされてしまう。
アニメ版で「ほしのさみだれ」のサブタイトルを使うなら確かにここか最終話しかないんだけど、原作ファンとしてはやはり原作第64話のタイミングで使って欲しかった。
夕日に茶巾寿司をくらった白道が原作と違って黒タイツではなかった点については、強く抗議したい。



南雲がアニムスに叩きつける「子供はお前だけだ」という台詞が大好き。テーマと戦いの決着がぴたりと重なっているのが素晴らしい。
サブタイトルがメインタイトルと同じ回って、見る側としても特別な回だと期待するじゃないですか。それがこんな有様ですよ。シリーズ序盤を彷彿とさせる抑揚のない演出とまともに動かない作画。心が動いたのはアニマが泣き崩れるシーンのM・A・Oさんの演技だけだったなあ。



「流れ星の矢(ネガイカナウヒカリ)」第二射発射直前の南雲のモノローグが大好き。本作がここまで描いてきた「大人と子供」というテーマが結晶した台詞だと思う。
原作ではこの最後の戦いは、見開きの大ゴマを惜しみなく使って巨大感・スピード感・力感に溢れたクライマックスに相応しい盛り上がりなのだが、アニメ版は原作の盛り上がりに遠く及ばない。いつものことだけど。
夕日がブルース・ドライブ・モンスターの深部へ向かうシーンとか、アニメ版ではえらくゆっくりのんびり走っているが、原作を読んでいるときはもっと全速力で駆けていくイメージだったので、コレジャナイ感大。
他にも今回は演出で気になる点が多かった。OP直前ではジャージ姿で騎士団の集合場所へ向かっていた夕日が、OP直後にはいつの間にかパーカー姿になっていたり。戦いの舞台となった場所は水田に見えるのに泥人形の足が全く沈み込まなかったり。泥人形はサイキックで体を浮かせているという解釈もできなくはないけど、原作ではちゃんと沈み込んでるし、たんに見過ごしたんだろうなあ。
シリーズ全体のクライマックスである最後の戦いでこんないいかげんな演出とゆるゆるの作画。スタッフの本作に取り組む意欲が窺えるというものである。



白タイツキャラリストに幼少時の朝日奈さみだれを追加。
願いを聞かれて「なにも」と答えるさみだれを見て鼻の奥がツーンと。ちっちゃい子が自分の未来に希望を持っていない姿を見るのはこたえる……。



今回の主役は風巻だけど、昴がかっこよくてもう!
戦闘シーンになると動きがぎこちなくなるのは相変わらず。南雲対インコマンは全然20秒に感じられないし、風巻の8体目の泥人形の砲撃は迫力がないし、炮軍・滅天陣は勝利の可能性を見出せるような威力ではないし、マイマクテリオンの「全力を存分に受け止め合えた」という台詞は「あれで?」って感じだし。総じて映像の説得力が不足しており、「台詞でこう言ってるってからそういうことにしておくか」と大目に見る必要がある。
概ね原作通りなので脚本に大きな問題はないのだが、物語を最低限成立させるだけの映像を演出が作れていない。当然原作の迫力や面白さには遠く及ばない。



概ね原作通りで可もなく不可もなし。動きも、よかったとは言い難いがいつもに比べれば粗が目立たなかったと思う。
夕日の帰省先にアニムスが現れてルールの変更を告げるシーンがカットされたのが大きな違いか。まあでも絶対にこのタイミングでないと不都合があるというシーンではないかな。



ロキの台詞「子供だものなァ 未来が欲しいに決まっておろうにな」の声の演技はよかった。そこだけは。
太陽のエピソードが台無しになったのは予想通り。太陽がどういう家庭環境なのかが大部分カットされたのだから、当然の帰結と言えよう。
太陽が家で露骨に邪魔者として扱われる原因はおそらく生まれたばかりの赤ん坊のせいで、太陽もそれはわかっていて、それでも赤ん坊を守って体を張るからこそ心を打たれるのに。
そして、太陽のことを見ようともしない両親と違って、太陽が戦う姿をちゃんと見ていて、その戦いに報い、「この子が初めて見た戦う男の姿がお前だ」(この台詞、本作で一、二を争うくらいお気に入り)と戦いに意味を持たせてくれる人(その人の名前が男性の中の女性性を意味するアニマというのがまた)がいる。
逆境をはねのけ、敵に立ち向かい、勝利し、美姫から祝福を得る。そんな神話の類型はいまどきはあまり好まれないのかもしれないけれど、太陽のような子供が英雄の道をたどる姿に、自分は強く心を揺さぶられずにはいられない。
今回かろうじて1カットだけ太陽の家族を描いたカットがあったけど、あれでは全然逆境具合が足りない。必然的に感動も小さくならざるを得ない。
あと、細かいことだが花子が太陽に電話したときの「それにほとんど即死だったから」という言い回しに違和感がある。ここの台詞は原作では「それにランスはすぐに消えちゃったから」だ。太朗のことを話すと電話口で涙ぐんでしまうような花子が「即死」のような直接的な言葉を選ぶだろうか、という違和感。尺もほとんど変わらないのに、この台詞を改変する意味がわからない。



はい、これで太陽のエピソードも台無し確定。
なぜなら、原作第36話がほぼ全部カットされたから。これでは太陽がどういう家庭環境なのかも、なぜアニムス側についたのかも、今回の冒頭でなぜ界王軒にいたのかもわからない。つまり、太陽のドラマを構築するための土台が一切なくなってしまっている。太陽のエピソード、大好きだったんだけどな……。
4月の時点で太陽とロキの前にアニムスが現れたのもおかしい。アニムスは七つ目の泥人形の体内から現れるまではこの時代に顕現できなかったはず。こういう雑な改変は本当に萎える。
白道が夕日を自宅に招くイベントがなくなったのはちょっと残念。白道が夕日の願い事を聞く会話はあったので、物語上大きな問題ではないが。
太陽とマイマクテリオンが見た映画が原作とは変わっていたが、後の展開の伏線として機能しそうなので、この改変はよかったかもしれない。



もー戦闘シーンで突然面白作画を繰り出してくるのやめて欲しいわー。半月が三日月をさらった奴等を竜巻のごとく(には全然見えなかったけど)投げ飛ばすところとか。「なんで俺を尾行てたんですかね」の半月の空気椅子には声を出して笑ってしまった。東雲家の道場の畳のデカさもなかなか。
アニメのはずなのにマンガである原作よりもスピード感がないのは本当に不思議。夕日と三日月の決闘シーンなんか、原作の方が圧倒的にスピードを感じさせる。
さみだれが10体目を圧倒的な力で蹂躙するシーンも、原作に比べるともう全然。アニメでは「気が合うな三日月」の後になっているさみだれの着地と顔のアップは原作では「ああ…なんて美しいんだ…」の前で、さみだれの表情も夕日が見惚れるのも納得の素晴らしさ。対してアニメはぜーんぜん納得できる域に達してないんだよなあ……。さみだれに見惚れている夕日と三日月の表情も、原作は呆然としている感じなのだが、アニメは何故か二人とも口元が笑っている。表情のニュアンスを変えて良くなっているとは思えないのだが。
他にも原作とは表情のニュアンスが変えられている箇所は多数。無理に変えようとせず、なるべく原作の絵をそのままなぞった方が作画も良く見えると思うなー。



このエピソードをこんなふうにしかアニメ化できなかったスタッフは、誰よりも太朗と花子に謝って欲しい。
原作の太朗と花子のエピソードは、読み返す度に顔が上げられなくなるくらいボロ泣きしてしまうのだが、アニメ版を見ていても涙は一滴たりともこぼれなかった。特に戦闘シーンではいつも通り面白作画(婉曲的な表現)が目白押しで、それが目に入る度に作品への没入度が下がった。
あと、アニメを見ていて今回ほどAパートとBパートの間のCMが邪魔に感じたことはなかった。作品に集中していたいのに、容赦なくそれをぶち壊してくる音と映像。CMの時間が興味を煽ったり息抜きになったりすることもあるけど、今回はひたすら邪魔に感じた。



見ていてホロリときてしまったので、原作を読んだときの感情を喚起してくれるレベルには達していたのだと思う。
演出も作画も音楽のつけ方も見違えるように改善されたとまでは言えないが、さみだれと三日月の戦闘シーンはいい動きをしていたし、OPは前期OPのようにありものの素材だけでごまかすのではなくOP専用カットがあったし(普通のレベルになっただけではあるが)、EDはありものの素材とはいえ原作の絵を使っていて好印象だし、良くなったところは確かにある。
どうか次回も大きく外さない出来であってくれ。頼む……!!





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