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とても良い

舌を巻かずにはいられない。「抜きゲーをベースにしたうまいコメディ」くらいの印象だったのが180度変わった。抜きゲー的な世界観がマジョリティの暴力に対する風刺として極めて有効に機能している。これはマイノリティの苦しみと闘争という普遍的な主題を非常にエレガントに表現した作品だ。
尺の都合で話が詰め込まれているのも、通常は描写が雑だという評価になるのだろうが、むしろ密度があって良いと感じた。昨今は描写の丁寧さが重視されるあまり、物語的な密度のない、のっぺりとした、薄味の作品が多いので、特にそう感じるのだろう。





全体
普通
映像
とても良い
キャラクター
良くない
ストーリー
良くない
音楽
普通

アニメーション以外面白くなかったというのが率直な感想。特に中盤、バイクとかオカルトとか「〜巡り」とか、延々とおじさんの休日を見せられているようでつまらなすぎた。基本的に展開を作るのが大人組で、シネフォト部の3人は彼女らに全肯定で付いていくというのはどうなんだ。普通逆じゃないか。そう思ってしまうが、この作品が、青春の瑞々しさを忘却し、大人の日常に埋没した中年男性にとっての「楽しい」を描いているのだと思うと納得がいく。この作品において、高校生とは「人生楽しんでる風」の大人になるための単なる前段階なのだ。本来若者は妥協と折り合いを経て大人になるはずなのに。初めから「人生楽しんでる風」の大人に向かっていく存在として描かれている。しかしもしかしたら、俺の抱いている若者像はもう古いのかもしれない。インターネットを通じて夢のない大人の世界を子供の頃から見せられている今の若者は、その中で「人生楽しんでる風」になることを「最もマシな未来」と捉えている可能性もある。以前はアニメにおける過剰な青春讃美に疑問を抱いていたが、「人生楽しんでる風」の全肯定がそのオルタナティブになっているのかもまた疑問である。







全体
とても良い
映像
とても良い
キャラクター
とても良い
ストーリー
とても良い
音楽
とても良い

友人と毎話議論をはさみながらじっくりと視聴。とにかく情報の密度が高く、議論が尽きなかった。セリフの一つ一つから演出の細部に至るまで、すべてに解釈の余地がある。最も見事なのは構成だ。主に玲音の主観から構成される最も抽象的な1話から6話。一転して3人称的になり客観的背景が描写される7話から10話。そしてこのアニメ作品全体を秩序立てる用語が導入され、一つの哲学的主題(ハードウェア/ソフトウェア != 肉体/精神)へと収斂していく11話から13話。明確な全体構造が13話まで与えられず、指数関数的に具体性が高まっていく。それにより、コンピューターと哲学、そして80~90年代の諸問題が衝突するところで生じるいくつもの問題系へと開かれている。昨今はサブカル的に、ある種の異国情緒によって消費されがちな本作品だが、今でも全く古びない豊かな文学性という点において、もっと再評価されて良いと思う。





























全体
とても良い
映像
とても良い
キャラクター
とても良い
ストーリー
とても良い
音楽
普通

短編集的だった一期とは対照的に、中編ミステリ二つから構成される二期だったが、展開が巧みで、普段は続きが気にならない俺もつい続きを再生してしまうほどだった。そして単なる展開の妙に留まらず、成熟の物語として、非常に本質を突いたものであったと思う。
前半の『秋期限定栗きんとん事件』は全能感の喪失の物語。若くて痛々しい瓜野のプライドがじっくりと丁寧に描写され、その上で物語の最後、圧倒的な敗北感が、瓜野の独白ではなく、瓜野を取り巻く事実の冷淡な叙述を通して暗示される。それにより俺たちは、全能感の喪失というある種の悲劇的な体験を、冷静に明晰に認識することができる。しかし、実はこの「敗北を突きつける事実に対する冷静さと明晰さ」こそがまさに、全能感の喪失という体験なのである。敗北を明晰に認識するということは、敗北を受け入れるということであり、その上で人は初めて、全能性という虚構に依らない、地に足のついた生を歩むことができるようになる。それは成熟への最初の一歩である。『栗きんとん事件』はそういう成熟に関する不可避の瞬間を物語と描写の両面から表現していると思う。
後半の『冬期限定ボンボンショコラ事件』は、主人公である小鳩の成熟を描いている。探偵的な欲望と才能から来る全能感に依るのでもなく、全能感の原因であった欲望を抑圧した極端な「小市民」的生に自己を矯正するのでもない、欲望の悪を反省しつつ所与の欲望を引き受けて生きる成熟した自己へと向かう物語である。小鳩が探偵的欲望を引き受けつつあった、言い換えれば「小市民」への夢想を諦めつつあったあったことは『栗きんとん事件』のエピローグで小佐内さんとの対話を通じて示唆されていた。『ボンボンショコラ事件』では、まさに小鳩が全能感を喪失するきっかけであった事件の再演を通じて、「欲望の悪」に正面から向き合うことになる。そして小鳩の犯した罪、欲望と全能感に浸されて他者の私的領域を侵してしまったこと、は当の他者への謝罪によって精算される。『ボンボンショコラ事件』のエピローグは『栗きんとん事件』とは対照的に、苦々しさを伴わなず、非常に爽やかである。実際、成熟した生における「悪の反省」はこのようなものでなくてはならない。己の悪が犯した罪の責めを有限の反省によって清算することができなければ、言い換えると、罪の責任を無限に負い続けようとするならば、悪を孕んだ欲望は引き受けられたとは言えないからだ。
最後に、この作品において、小佐内さんは極めて舞台装置的である。彼女は事実として全能であり、他の全登場人物の思考を常に先取りしているようなところがある。そんな小佐内さんが物語の終盤、小鳩の生存を目に涙を溜めて喜び、小鳩の車椅子を引いて献身する姿は、さながら人間に恩寵を授ける女神のようである。あるいは、戦闘美少女の伝統に連なる「萌え」キャラクターの風格を漂わせていると言ってもいいかもしれない。「リアリティ」ばかりが評価され、キャラクターが記号性を失っていく現代において、小佐内さんは一つの再興可能な「萌え」を宿している。







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