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サービス開始日: 2025-04-12 (273日目)

視聴状況

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全体
とても良い
映像
とても良い
キャラクター
良い
ストーリー
良い
音楽
とても良い

基本的には学校生活の描写から構成されており、その中に恋愛物語(といってもほとんど物語性はないが)が埋め込まれている。現代の「学園もの」が学校生活をほとんど描いておらず、いかにフェイクかがよくわかる。
現代の感覚からすると、時間の流れが非常に遅い。物語も、恋をして、女の子の危うい一面を知り、それでも恋を引き受ける、という以上のものはなく、超薄味である。一見退屈しそうだが、そうでもなかった。むしろ情報量がほとんどなく、学校生活と恋の趣だけが流れていくので、かえって余計なことを考える余地がなく、没入できた。
このOVAの予告編は「SFもメカニックもない。ただ初恋のときめきだけをアニメの画面に封じ込めた。これは、アニメ世代に贈る青春の神話です。」という言葉で閉められるらしい。たしかに、この作品の鑑賞体験は「初恋のときめき」を表現した音楽を聴いているかのようだった。



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見た

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ストーリー
とても良い
音楽
良い

すごいよかったし、すごくえっちだったんだけど、まさにアルバムをめくっていくみたいに「人生の転機」を巡っていくから、すべてが過去に葬られていくようでかなしくなった。平成も、青春も、『かぐや様』の記憶と紐づいたあの初々しい大学生活もぜんぶ過去なんだなって。



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全体
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とても良い
ストーリー
とても良い
音楽
良い

完璧なアニメだった。原作も読みたい。



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とても良い

唯一ミステリ的展開のほとんどない最終話。20話、21話と、徐々にミステリの要素が薄くなって、直接的な心の描写に向かっていった気もする。しかも、22話は、これまでミステリを駆動する舞台装置の役割を担ってきた千反田えるの人生の話。これが何を意味するのか。折木の話とみれば、この最終話は、21話と同型の「執着/自由」の主題の反復であり、里志と摩耶花の恋路のその後が描かれなかったことともあわせて、作品全体をきれいにまとめている。折木の言い方を借りれば、「省エネかそうでないか」をめぐる心の揺れ動きが彼の葛藤の中心であった。ラストシーンでは、それが「千反田と添い遂げるかそうしないか」という二者択一にまで一気に飛躍し、しかし会話は愛すべき省エネを象徴するような天気と季節の話に落ち着く。本当に美しい。



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とても良い

人間関係の描き方がなんとなく新鮮で、かつ「リベラル」な趣があり、調べてみると、2020年のライトノベルが原作らしく、腑に落ちた。具体的にどこがどう新鮮なのかを理解できているわけではないのだが、10年代の非ファンタジーのライトノベルが考えてきた自意識や人間関係の閉塞を、男性主人公・複数ヒロインというハーレム的な枠組みを取っ払い、全メインキャラクターを女性とすることで突破しようとしているように感じる。原作一巻が同時期の『負けヒロインが多すぎる』は、「失恋後」を舞台とすることで突破を図っていたわけだが、その亜種という印象だ。だが、全メインキャラクターを女性にするというのは、かなりラディカルな設定であり、単にハーレム設定の限界を突破するという以上に、「男女」という関係性に付きまとうジェンダー的な限界をも無くしてしまうわけで、それが最初に感じた「リベラル」な趣につながっているのだと思う。原作がコロナ以前なのも、たぶんその方向性を増長しており、ジェンダーの影響を取っ払った状態での「友情」や「恋愛」を空想で科学しようという志向がそもそも強い。翻って、コロナ以降の非ファンタジーライトノベルがどのような問題意識に向かっているのか、気になるところだ。



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一時中断

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とても良い

千反田えるは涼宮ハルヒだ。より正確には、涼宮ハルヒの精神分析的な実装といえる。涼宮ハルヒは『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品における神であり、SF的な世界設定によって与えられた超越的な能力によって、作品世界の時空間的な構造を、彼女の無意識の形に合うよう、強引に変化させてしまう。一方、千反田えるは、涼宮ハルヒのような超越的な能力を備えてはいないが、自意識という人間普遍の心理機構を欠いた超人的なキャラクターであり、好奇心や違和感といった前意識的な心の動き=無意識が抑制されずにそのまま奔出する。結果、彼女は、事件を呼び込み、折木による推理を促し、事件の背後にあった葛藤を暴き、心の淀みをなくしてしまう。言い換えると、千反田えるは、自身の無意識=好奇心が満たされるように、公共的な言語空間(私秘的でない言語空間という意味で)を作り変えてしまうのであり、その意味で『氷菓』という作品における神である。彼女の干渉は、人間の内的な葛藤、心の淀み、自意識の沈殿を許さない。しかし、人間は、自己や関係の同一性と連続性の問題として、葛藤の急進的な解消を望まない場合がある。里志と摩耶花の恋路はそういうケースである。だから、3人は千反田をだまし、公共圏への干渉を阻んだのだ。



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この作品、千反田えるを除いて全てのキャラクターにはっきりとした自意識が感じられるが、にもかかわらず現実の学校生活にはつきものの「冷笑」や「シラけ」をともなう自意識が一切見られない。どのキャラクターも「謎解き」やら「部活動」やらに真面目に取り組んでいる。この点、違和感というほどではないが、自意識の表現の不徹底のようにも思われる。が、学校生活そのものにシラけた自意識の導入は、ドラマ全体を「本気/冷笑」の二項対立へと陳腐化してしまう気もする。むしろ全キャラクターが真面目になれる地平を仮構することで、その下での自意識の機微を描くことを目指したのかもしれない。実際、現実の人間心理においても、社会における生存という地平では、おおむね真剣さが保証されているので、その水準を学校生活へと下降させるのは、紙面の限られた学園推理小説の可能性を考慮すれば、とても理にかなっている。



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とても良い

青春すぎるってぇ!俺もこんなガチの高校生活送りたかった...



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とても良い

自身を特別視する先輩の言動が、優越感をともなう自意識を芽生えさせるも、反芻され、固定化される前段階で挫かれる。自意識を意識することさえ許されず、それが屈辱であることも分からぬまま、ただただ落ち着かなさに翻弄され、イライラすることしかできない。飄々とした人物であった「はずの」折木の中にあった自我が、他者に翻弄される過程で露わになる様子が生々しく描かれており、自意識の感覚がフラッシュバックして、苦しさが心地よかった。



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視聴中止

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とても良い

音楽が良いというのがどういうことなのか、考えさせられる。良い音楽は、たぶんある一つの奇跡的な調和であって、和声による共振から演奏者同士の魂の共振まで総合的に反映して、「良い!」という体験をもたらすのだろう。



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とても良い

千歳くんとその取り巻きは、「キルケゴールも萩原朔太郎もドストエフスキイも読んだことない」し、「Radioheadを聴いたこともハヌマーンで感動したこともsyrup16gで泣いたこともない」軽薄な「陽キャ」で、しかし同時に、俺たちもまた『非リアでも恋していいですか?』や『オタクの俺がギャルビッチに狙われている』を読んでいることを誇りにしている山崎くんのように軽薄な「陰キャ」に過ぎない、ということを突き付けてくる無慈悲な「他者」でもある。さらに彼らは、キラキラした青春と恋物語に耽り自惚れることで自己を正当化しているやはり軽薄なナルシストであり、同時に彼らなりの挫折や苦しみ(例えば、千歳くんなら野球、柊夕湖なら「見られるのには慣れている」こと)を抱える人間でもある...。こんな感じで、観ていて視点が定まらない。そして、この視点を揺さぶられる鑑賞体験自体が、現実に対する態度を定められない俺たち自身の優柔不断さをエミュレートしているようにも思う。さらに、お前のその優柔不断さは「安全に痛い自己反省パフォーマンス」だぞ、と刺してきているようにも感じる。



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