琵琶湖に浮かぶオブジェクトは、あるのが当たり前と錯覚していたが、人魚にしか見えない、ララの心の形。たぶん見返すとララ視点のシーンでだけオブジェクトが描かれてきたのだと思う。
海底にも地上にも戻れないと嘆き、またしても自分を犠牲にしようとするララと、人間と人魚の違いの存在を認めつつ、ララの戻る場所を提示する茉里。
誰かを愛するために生まれてきたんとちゃうん?→(人魚の世界を存続させるための)本当の愛なんていらない、人間世界への希望の自覚→人間として復活!のスペクタクル。
ずっと提示されてきた、本当の愛というのが、人魚の世界を存続させるための手段として誰かと結ばれることから、人間の中に希望を見出すというララ自身の目的になった。
(物語の後半で描かれてきたルカとの関係は、ララがタイムリミットの話を聞かされてからは、目的から手段に変わってしまったがゆえにうまくいかなかった)
滋賀を離れ、茉里と別れることも、希望を伴った旅立ちで、茉里の最後の表情で締めるというのも潔い。
2周目「人魚のひいさま」の結末。絶望エンドでなくてよかった。
王子様を探すところから始まって、本当の愛を探すに抽象化された段階で(カマセの)ルカから茉里に執着の対象は変わっていった。
ゴンちゃんを助けたのも茉里だったし、人魚と縁のある少女だねえ。
死がやってきて、再生が描かれる。最終回らしい奇跡だ。こういうもののために物語はある。
さよならララ。また会える日まで。
展開としてはローワンの言うとおりララの刃が茉里を刺し貫き、光が現れたが…それでは結局刃は消えず、無惨な結果を引き起こした自分を憎んだララは自らが刃に飲み込まれてしまう。ローワンの示唆する道はやはりどこにもたどり着けなかった。飲み込まれたことで茉里に近づき、「本当の愛」などいらない、どうでもいい、ただ茉里と生きる明日が欲しいと願うことで刃は砕け散り、光が溢れて茉里は蘇った。その光は人魚をたちどころに蘇らせるほど強いものではなかったが、長い時間をかけて人魚を救うらしい。
結局…人魚たちが言っていた「本当の愛」というのは、人魚にとって都合の良いことが起きる関係・現象に過ぎなくて、人間との間で起こるものは少なくとも彼らに取って「本当の愛」ではなかったということなのだろう。だからといって、人魚が「本当の愛」と認めないものが『本当の愛』でないとは限らない。彼らの言う掟はそうでないと分かるのに、彼らの言う「本当の愛」はあまりに一般的な用語すぎて…それは普遍的な本当の愛なのだと、少なくともそれに大きく重なるものなのだと、視聴者も作中人物も半ば錯覚させられていた。その2つ(もしくはそれ以上)が違う意味だということに最後まで確信が持てなかった。ララが「本当の愛などいらない」と言うことで、全員がその呪縛から解けるまで。
ララはその後旅立ってしまうが…ララの上京物語というのは二重の意味でそうだったのね。人魚の世界から旅立ち、そこにはもうたぶん戻れない。そして茉里のいた場所から旅立ち…そこはいつでも優しく迎えてくれる、だから旅立つ。
人魚姫のリメイクとして、異なる常識を持つわかり合えない世界の間でアイデンティティを見失った者が自分の道を見つける物語として、二度の状況物語として、ララと茉里の友情の物語として、想像を超えるような劇的な最後ではなかったけれど、本当にどこかこの世界に続いているような悪くない最後ではあった。ただ、個人的にはこの作品は、特に人魚族との和解に関してはもっと大団円でも良かったのではないかという感覚はある。人魚たちは結局リサ以外最後まで自分たちの考えを変えることはなかった。背負う必要はないのかもしれないが、あそこまでしたグレイスの望みもこの形で着地させて良いのか。良い悪いはともかくこうなったのだ、という現実を描くのもそれはそれで良いのだが、物語としてはもう少し奇跡を願っても良かったのかなと。トゥルーエンドルートがどこかに残っているような、そんな感覚がある。
いい感じに終わるが理屈はよくわからないな。愛する人を殺せば光を取り戻し人魚は復活する。しかしララはそれを拒否し殺したはずのマリの光を取り戻しマリは生き返る。しかしララはマリとの暮らしを捨て一人旅立つ。この光とは?愛とは?いまいち納得感の薄いラストだったが、これは本当の愛とはエロスではなく(もちろん百合でもない)アガペーでもない。対人間や対人魚への愛でもなく、このまるごとの「世界」そのものへの愛と解釈すればいいのか?だから執着の対象にもなるマリやルカ、人魚の家族からも遠ざかる
汝の敵を愛せよ