序盤は、タイトルの「アポカリプス」から抱くイメージや、規則正しく業務をこなす姿、廃棄されたロボットたち、宇宙人との異文化交流などから、真面目な作品なのかなと思って見始めた。
ところが中盤以降は、宇宙から帰還したヤチヨの変形、ロボットがグレる、葬式と結婚式を同時に執り行うなど、破天荒な展開が続いていく。
制作スタッフがやりたいことを自由にやって楽しんでいるような雰囲気が感じられ、見ているこちらも愉快になった。(流石に、遺体を使った切断マジックはどうかと思うが。)
一方で11話のヤチヨ休日回は、ほとんどセリフがなく荒廃世界を散策することに大きく時間を割いており、コメディとは一線を画している。
作品ジャンルを考えると、SF、終末もの、お仕事系、ブラックコメディ、日常系などを混ぜこぜにした作品に見える。
良く言えば幅が広いが、悪く言えば焦点が定まっておらず、人によって好みが分かれるかもしれない。
個人的には、さまざまなお客様がやって来るホテルだからこそ、幅広いジャンルの物語が生まれるものだと解釈している。
手放しで面白いとまでは言えないが、銀河楼十則のひとつである「ホテルに物語を」をしっかり形にした作品だと思う。
人形使いの振り返りパート。
情報工作している描写では、なんか見覚えがある人たちが映ってたけど、
過去に9課が担当した事件にも人形使いが関わっていた、ということでいいのかな。
最初のほうのエピソードは雰囲気で見ていたところがあるので、最初から見返してみると面白いかもしれない。
そして、だんだん人形使いの口調が滑らかになっていくのも、芸が細かいなと思った。
AIが自我を持ったことについての少佐とバトーの会話。
少佐は「もし生命体だったら~」と、少しムキになって言い返していたようにも見えた。
なんだか、少佐自身は人形使いを生命体だと思っている節を感じる。
「生命の誕生」という視点で7話を振り返ってみると、
バトーが「避妊する」という、生命の誕生を連想させる言葉を使っていたり、
DNAの螺旋構造や、地球が受精卵の細胞分裂のように変形していく描写があったりしたが、
これらは、人形使いを新たな生命として捉えた少佐の認識を描写するためのものだったのかもしれない。
そう考えると、少佐が涙を流したのは、新たな生命の誕生を認識し感動したからなのだろうか。
ぼんやりそんなことを考えているが、やっぱり7話の後半は抽象的すぎて、いまだにどう理解すればいいのかよく分からない。
また、7話を見たときに個人的に感じた「自己を認識したAIは生命といえるのか」という問いかけについては、
単に問いを投げかけているのではなく、「自己を認識したAIは新たなる生命だ」という主張のように感じてきた。
そして、その主張を受けて、
「新たな生命と人類は、これからどう向き合っていくのか?」
という問いかけているのかもしれない。
まあ、最後まで見たら、また考え方は変わるかもしれないが。
アリとセイランの友達以上の関係はこれまでも度々描かれていたけど、このタイミングで掘り下げエピソードが来ると、前話とはまた違った喪失感を感じてしまう。
アリが手紙に込めた「あなたがもっと弱虫なら良かったのに」という思い。
セイランの意思を尊重したい。でも、本音では戦場に行ってほしくない。
そんな板挟みの気持ちがよく表れていて、なんともいたたまれない、切ない気持ちになってしまう。
そして最後に、死んだ人を生き返らせる魔法の話をするミミ。
欠片も残っていない状態から、そんなことができるの?
それって、ミミと同じように死ねない体になるんじゃないの?
そもそも、死んだ人間を生き返らせることって、倫理的にはどうなの?
と、いろいろな疑問が浮かんでくる。
泣いて気持ちに一区切りをつけたように見えるアリは、ミミの話をどう受け取るのか。
そもそも、ミミ自身は自分が死ねないことをどう思っているのか。
この作品が「死」というものをどのように描いていくのか、気になるところ。
印象的だったのは、食事のシーン。
大津家の食卓は、みんなでワイワイと会話をしながらの食事。主菜は焼き魚。
一方、ララとリサの食卓は、二人だけで会話も弾まない。食事にも手を付けず、主菜は刺身で、デザートにはアイス。
温かみを感じる大津家の食卓に対して、ララとリサの食卓からは冷え冷えとした印象を受ける。
これは、ララが感じている「人間の世界」と「人魚の世界」の温度差を表しているかのようだった。
全体としては、ララが人間の世界に留まり、「怖くても止まらない」と覚悟を決めたエピソードなのだろう。
覚悟はできたとして、問題はここからどうやって「本当の愛」にたどり着くのかということ。
個人的に、本当の愛とは特定の誰かとの愛ではなく、すべてを包み込むような愛のことだと考えている。
以下は、超個人的な妄想と、その妄想に至った経緯。
ララの母親は、本当の愛にたどり着いたとされている。
そこで、ララの母親についての描写やセリフを振り返ってみた。
まず、ララの誕生シーンでは、母親が描かれていない。
人魚の生態については知る由もないが、少なくとも人間の感覚からすると、子供の誕生に母親が立ち会っていないことには違和感を覚える。
さらに、回想シーンでリサが「この城に命を与える光もお母様が生み出したもの」と語っている。
このあたりを振り返っていると、もしかしてララの母親は、物理的には存在していないのではないか?という妄想が浮かんできた。
ララの母親は、皆を照らす人魚の「光」そのもの。つまり、人魚の世界を愛し、命を与え、守る、そういう存在へと進化したのではないだろうか。
自己を犠牲にしても、見返りを求めず、愛し続け、与え続け、守り続ける。そんな意志と覚悟を持てたとき、本当の愛にたどり着けるのかもしれない。
もしそうであれば、ララが本当の愛にたどり着くうえで、相手が茉里なのか、ルカなのか、それとも別の誰かなのかは、大して重要ではないように思う。
家族愛、友情、恋愛、そういった、いろいろな関係をいろいろな人達と築くなかで、本当の愛へと至るのではないだろうか。
ララも本当の愛にたどり着いたなら、母親と同じように、物理的に存在しなくなるかもしれない。
本作のタイトルは「さよならララ」。
物語が「別れ」に向かうことは、タイトルからも察せられる。