サービス開始日: 2017-07-17 (3326日目)
印象的だったのは、食事のシーン。
大津家の食卓は、みんなでワイワイと会話をしながらの食事。主菜は焼き魚。
一方、ララとリサの食卓は、二人だけで会話も弾まない。食事にも手を付けず、主菜は刺身で、デザートにはアイス。
温かみを感じる大津家の食卓に対して、ララとリサの食卓からは冷え冷えとした印象を受ける。
これは、ララが感じている「人間の世界」と「人魚の世界」の温度差を表しているかのようだった。
全体としては、ララが人間の世界に留まり、「怖くても止まらない」と覚悟を決めたエピソードなのだろう。
覚悟はできたとして、問題はここからどうやって「本当の愛」にたどり着くのかということ。
個人的に、本当の愛とは特定の誰かとの愛ではなく、すべてを包み込むような愛のことだと考えている。
以下は、超個人的な妄想と、その妄想に至った経緯。
ララの母親は、本当の愛にたどり着いたとされている。
そこで、ララの母親についての描写やセリフを振り返ってみた。
まず、ララの誕生シーンでは、母親が描かれていない。
人魚の生態については知る由もないが、少なくとも人間の感覚からすると、子供の誕生に母親が立ち会っていないことには違和感を覚える。
さらに、回想シーンでリサが「この城に命を与える光もお母様が生み出したもの」と語っている。
このあたりを振り返っていると、もしかしてララの母親は、物理的には存在していないのではないか?という妄想が浮かんできた。
ララの母親は、皆を照らす人魚の「光」そのもの。つまり、人魚の世界を愛し、命を与え、守る、そういう存在へと進化したのではないだろうか。
自己を犠牲にしても、見返りを求めず、愛し続け、与え続け、守り続ける。そんな意志と覚悟を持てたとき、本当の愛にたどり着けるのかもしれない。
もしそうであれば、ララが本当の愛にたどり着くうえで、相手が茉里なのか、ルカなのか、それとも別の誰かなのかは、大して重要ではないように思う。
家族愛、友情、恋愛、そういった、いろいろな関係をいろいろな人達と築くなかで、本当の愛へと至るのではないだろうか。
ララも本当の愛にたどり着いたなら、母親と同じように、物理的に存在しなくなるかもしれない。
本作のタイトルは「さよならララ」。
物語が「別れ」に向かうことは、タイトルからも察せられる。
前回はシタラがボラクチンに不信感を吹き込む側だったが、今回は逆にボラクチンから不信感を吹き込まれる側になっていたのが印象的だった。
かつて復讐の決意を込めてドレゲネに差し出したジャダ石を、今回はボラクチンに差し出す姿は、シタラの「してやられた感」を象徴しているようにも感じられた。
もしかすると、シタラがドレゲネのもとを離れ、ボラクチンのもとに下ることを示唆しているのだろうか。
ボラクチンとドレゲネがどのような会話をしたのかは、今回明かされなかった。
おそらく、ドレゲネに対する不信感をシタラに吹き込んだように、シタラに対する不信感をドレゲネにも吹き込んだのだろう。
「ファーティマ(シタラ)は、ソルコクタニがお前を監視するために送り込んだスパイだ」なんてことを言ったのかもしれない。
シタラがシラとコソコソ話している姿を見れば、ドレゲネが疑心暗鬼に陥るのも無理はない。
シタラもドレゲネもボラクチンの手のひらの上で転がされているように見え、ボラクチンのしたたかさが印象に残った。
オゴタイが毒に侵され、トルイが身代わりの水を飲むに至る経緯については、明確なことが示されていない。
しかし、トルイが身代わりの水を口に含むときに、誰かがニヤリとする描写が挟まれていたことから策謀がめぐらされている可能性が感じられた。
仮に身代わりの水に毒が仕込まれていた場合、トルイを治療しなければ、そのまま毒殺することができる。
一方で、毒を飲んだトルイを治療すれば、兄を助けた弟という構図を演出することもできるだろう。
一体誰が、何を目的に動いているのか。
考え始めると疑問は尽きないが、同時に、まだ明かされていない部分が多いからこその想像の余地があり、なかなか面白い。
3回見たけど「よくわからない」というのが素直な感想。
最初、人形使いは人間かと思っていたけど、人間じゃなくて、6課が開発した情報工作のAIということか。
6課は情報工作について調べられるとまずいから回収しに来たが、人形使いがいろいろ喋りだしたから強奪していった。
ひとまず個人的にはそう理解した。
人形使いは自己を認識したことで、自分は情報の海で発生した生命体と自覚し、亡命を希望している。
この辺りは素直に「自己を認識したAIは生命といえるのか」という問いかけとして受け取った。
人形使いと少佐のやり取りは難解だった。
人形使いがネットに接続し、防壁を潜って広大なネットワークに解き放たれた、といった事かとも思った。
ただ、それなら少佐は普段からやっていることだし、作中でトグサが防壁を潜って銀行口座にアクセスしようとする描写もあるし、
なんとなく違うような気がしている。
少佐が感涙するほどの何かが起きてるんだろうが、その辺りは「ヤベーことが起きている」という雰囲気でしか感じ取れなかった。
難解でよくわからない。よくわからないけど、なんか惹きつけられる。そんな面白みを感じている。
ここまで、あまり話が進まない感じがしていたので「戦争と隣り合わせのシリアス寄りな日常系アニメなんだろうか?」なんてボンヤリ思い始めてた矢先の急展開。
子どもたちを量産兵器として扱う上層部に対して、考え方を変えてほしいと思ったフラン先生の提案が、
結局はセイランを焚きつけ、戦場に送り出すことになり、戦死という形で返ってくる。そんな皮肉な展開が、やるせなさを大きくしている。
アリはどうなってしまうんだろう。どんな思いを手紙に込めていたのだろう。そんな心配や疑問が頭の中をグルグルしている。
14クラスに配属されるまで地下にこもっていたミミにとっては、親しい友人の死(しかも眼前で)は初めてかもしれない。
セイランの「なんのために戦っているの?」という問いかけも含めて、どんな影響を与えるかには注目したい。
模擬戦がなければ、負傷兵に遭遇せず止血剤が手元に残っていれば、なんてタラレバを抱きつつ、やるせなさの残るエピソードだった。
ルカはララの正体が人魚だと知ったうえで「ララがララやから一緒にいたい」と胸中を明かしているが、
それは男女の恋愛にとどまらず、種を超えた愛にも見える。
これまでを振り返ると、
父が最後の光を託しながら残したメッセージ「お前を愛している」:家族愛
茉里の「アホでおもろいやつは好き」:友情としての愛
ルカの「ララがララやから一緒にいたい」:恋愛・種を超えた愛
というように様々な愛のカタチに触れてきている(カテゴライズはあくまで個人の意見)。
あまり見たくはないが、次にララが触れる愛のカタチは姉妹の愛憎劇だったりするかもしれない。
リサの「手段はまだある」というセリフや、花火大会中の誰もいないリサの部屋の描写がなんだか気になっている。
それはさておき、いろいろな愛のカタチに触れていくララ。最終目的は本当の愛を探すこと。
個人的な感覚でしかないけど、「本当の」と付くからには単なる「恋愛」や「家族愛」「種を超えた愛」といった
カテゴライズされた愛のどれか一つを指しているとは考えにくい。
もっと根源的で、普遍的で、あらゆる愛を内包するようなものを見つける必要があるのかもしれない。
稲子が「結婚したくない」「杜氏になる」と決意を固めたことは一歩前進に感じた。
ただ、せっかく決意したなら父親と向き合わなければ問題の解決にはならず、なんのための決意だったんだろうか。
稲子の逃走は2話で描かれた蔵からの脱出と同じような展開に見えた。
背景の説明がないためか、この逃走に限らず、喜八の人間不信や暗所恐怖症、健吾の思わせぶりな言動、洋輔の電機目録と清六に対する固執など、
全体的にシチュエーションが異なるだけで、同じことを繰り返しているように思えてしまう。
ケイトパパとの対面で物語の進展に期待したいところだが…。
表面的には種を超えた親子の感動ドラマのように見えるが、
その奥には「命の尊さ」と「命を扱う難しさ」が内包された物語だと感じた。
この映画を見て実際に起きた事件を思い出した。
動物の愛護活動を行っていた人が、自身の管理能力を超えた動物を受け入れた結果、
多頭飼育崩壊を引き起こし、衛生環境の悪化や異臭問題で周囲とトラブルになった事件だ。
この事件と、母竜が卵を拾い育てる姿が重なって見えてしまった。
なにも母竜が安易に卵を拾ったことを批判したいのではない。
救える命があるのならば救いたい、という感情は至極真っ当だし、素晴らしいことだと思う。
しかし、命という重みが、さまざまなバランスを崩し、押しつぶしてしまう。
作中でハートは不気味がられ、殺されそうになり、最終的に捨てられることになる。
結局、母竜は群から離れて暮らすことを選択するが、これこそ命の重みゆえの結果なのではないだろうか。
なにが正しく、なにが悪いかという問題ではないのだろう。
それは終盤の母竜とバクーの対話にもよく表れていた。
肉を食わないと生きていけないハートをどうするつもりだったか尋ねられた母竜は、
たとえ自分が食べられても、ハートに生きてほしかったと訴える。
しかし、もしそうなればハートは母親を食い殺した苦しみを一生背負っていくことになる。
かといって、母竜が育てなければハートは生きることさえできなかった。
この母竜とバクーの対話に、誰もが納得できる「正しい答え」を出せる人がいるだろうか。
正解がないからこそ、命を扱うことは難しく、そして尊いのだと思わされた。
多頭飼育崩壊の例に限らず、命に関わる問題に直面することは現実にもあるだろう。
そのとき、自分はどうすべきなのか。
そんな問いを投げかけられた作品のように感じた。
毒を取り除き信頼を得ることで、逆に猜疑心という名の毒を流し込んでいくシタラの戦略と
一筋縄ではいかないボラクチンの底知れなさが印象的な回だった。
ラストのボラクチンがドレゲネだけを呼び出したシーン。ボラクチンの大きな影がユラユラと揺れている様子は、ドレゲネの不安の大きさと心の動揺を表していたように感じた。
このタイミングで入るサブタイトル「大カトゥン ボラクチン」も絶妙だった。
「シタラ、もしかしてボラクチンのこと勘違いしてない?」という視聴者の胸騒ぎとドレゲネの不安をシンクロさせ、
同時に、これがボラクチンが大カトゥンたる由縁なのだと感じさせる、演出だったのではないだろうか。
ボラクチン役のくじらさんの妖しい声音も雰囲気を引き立てていたと思う。
シタラが打った一手に対し、ボラクチンがどういった手を返すのか、続きのストーリーが非常に気になる展開だった。
シュールな笑いがジワジワ込み上げてくる作品。
小手先でなんとかしようとして因果応報を受けたり、食欲と感情で葛藤したりと、
行動の結果が自分に返ってくる、なにかを得ればなにかを失う、ということをブラックジョークを交えて上手く描かれていたと思う。
3DCGでセリフはないが、表情や仕草で感情が伝わってきたし、心情面からもキャラクターに人間味が感じられ楽しめた。